源氏の雑学

源氏の雑学<その1>

源有綱が義経の家来となったいきさつは

有綱の祖父源三位頼政は歌人として有名で、歌の世界で朝廷や平清盛の師匠となり良好な関係を保っていたが頼政が晩年を迎えたころ、平清盛が自分の孫であった3歳の子供を安徳天皇として即位させてしまったため、本来天皇になる予定であった以仁王は将来の道を閉ざされ頼政と手を組んでクーデターを起こしました。

しかし以仁王側が戦いに破れ、頼政は宇治の平等院で77歳で自害をし、以仁王と頼政の子仲綱、そして孫の筆頭宗綱はそれぞれ戦死しています。

有綱以下5人の孫はまだ年が若く、死ぬには忍びないということで、京都から宇都宮藩を頼ってやって参り宇都宮藩の紹介で塩原の山奥にやって参りました。

有綱のすぐ下の弟頼成は塩原の老舗である和泉屋旅館の先祖様であり、3番目の弟廣綱は地元建設会社の先祖様との話も有ります。

有綱はといいますと京都から宇都宮藩へと向かう途中、鎌倉に立ち寄り頼朝の紹介で義経の家来に入りました。

 

源氏の雑学<その2>

源有綱は義経の娘婿

義経は7歳の時鞍馬寺で仏の修行に入ったが、そのうち自分の父親が平家に殺されたことを知ると、父の仇平家打倒のために武者修行をすることとなり、16歳になると縁あって奥州平泉にわたり藤原秀衡のもと更に修行に励んでおりました。

しかし22歳になったときに兄頼朝が34歳にして流罪となっていた伊豆の蛭ケ小島から父の仇平家打倒のために立ち上がることとなり、それを知った義経は兄の手助けをと頼朝が本陣を張っていた静岡県の黄瀬川に馳せ参じることとなります。

藤原秀衡としてみれば、やがての藤原家の殿様予定者である義経を戦場に出すのは猛反対、しかし義経が言うことを効かなかったため、秀衡は自分の大切な家来で腕のたつ佐藤継信、忠信の兄弟ふたりを義経のガードマンに付けて戦陣に見送ったと言われています。

この佐藤兄弟に妹がひとりおり義経はその妹とねんごろになり、娘を一人設けました。妙香と言う名が付いています。その妙香さんが15・6歳で有綱のところへ嫁に来ました。

従って有綱は義経の娘婿。源平最後の合戦壇之浦の戦いでは義経を父と慕い、弁慶とともに活躍することになります。

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